員弁町(文化財ほか)
1. 岡一号古墳
岡地区の北部丘陵にある三基の古墳のうち、子良神田神明社の北方にある一号墳は茶臼山と呼ばれ、全庁41.5メートルの前方後円墳である。大正時代には水晶の玉や剣が出土しており、この規模や造りからみて、6世紀中頃の有力豪族の墓と推定されている。
※詳しくはこちらから
2. 金井城址
金井城は、永正2年(1505年)、近江6角氏の一党である種村氏により築かれ、3代続いた後、天正4年(1576年)に廃城。北と東側は自然の渓谷、南側には員弁川が流れる天然の要害で、西側に空堀りをめぐらせ、周囲には土塁を築いた堅固な城であった。
3. 銅造誕生釈迦仏立像
三重県指定有形文化財。像の高さは、約8.5センチメートル。台座の蓮肉の上に直立する姿は、釈迦の誕生時の七歩歩んで、右手で天、左手で地を指して「天上天下唯我独尊」という言葉を発した姿をあらわしているとか。その作風から7世紀後半(白鳳期)の作と考えられる。
4. 刻限日影石
三重県指定有形文化財。笠田大溜の水をめぐって続けられた争いを解決するために、懸野松右衛門の発案で、弘化4年(1847年)に水路の分岐点に建てられたといわれる日時計の一種。この時刻をもとに水争いを解決し、笠田大溜の水は公平に分配されるようになったと言われており、平和のシンボルとされています。
5. 槇の木
畑新田の位田徳郎氏宅にそびえる槇の木は、高さ、枝巾15メートル以上。約700年もの間、この地を見つめてきた老大樹は他には類を見ず、歴史の重さも感じられる。
6. 室町、戦国の員弁の豪族たち
6-1. 員弁町の城砦と城主
室町時代、南勢は国司北畠氏の勢力下にあって、南は志摩から熊野、西は伊賀南部から大和の一部にまで及んでいた。北勢は安濃郡長野の工藤、亀山の関氏、神戸の神戸氏などの国人領主が勢力をもっていて絶えず相争っていた。これを北勢三家といったが、その他のそれぞれの地域には、その地域の土豪、有力者が勢力の拡張を狙って争っていた。永享12年(1440)伊勢国守護職の土岐持頼が死んだ後は、小領主たちの乱立抗争は一層はげしくなり、北勢四八家といわれる国人領主たちが互いに争いをくり返した。室町時代から戦国時代にかけて、員弁町にもいくつかの城砦があった。県教育委員会の調査によると、城館跡が現在残っているものが六、不明なものが三となっている。昭和51年(1976)三重県教育委員会の埋蔵文化財調査報告「三重の中世城館」によって当時を偲ぶことにする。
6-2. 上笠田城
上笠田字城下263-2(笠田砦) 地目:山林 立地:丘陵 規模:53×65メートル
時代:永禄 城主多湖大蔵允
概要:多湖家は建武年間(1334~37)にこの池を押領し、代々居住して付近に大きな勢力をもっていた。永禄年中には、飯田佐衛門尉が上笠田城を守っていたが織田信長の侵攻の際に滅ぼされた。(勢陽五鈴遺響)南側に員弁川を臨む丘陵の端に位置しており、土塁、空も部分的に残存している。寛永年間に六把野用水路の掘割により城跡は分断されている。現在城山稲荷大明神が祀られている。(三重の中世城館)
6-3. 宇野城
宇野字屋敷 地目:山林 立地:台地 時代:永禄 城主後藤右馬允実重
概要:後藤右馬允実重が居城したが永禄11年(1568)織田信長侵攻の時に滅ぼされた。(勢陽五鈴遺響、三重の中世城館)また、「員弁雑誌」には布留屋草紙日、宇野村は後藤右馬允、永禄11年信長に被誅と云々、北伊勢軍記並通誓日、員弁郡宇野城主後藤右馬允実重といふ、是は、後藤兵衛尉実基が二男民部尉が末葉なりと云ふ。北畠物語一巻曰、勢州北方の諸待は昔源平治世以後、北篠足利氏に領地を賜つたもの也・・・・・と書かれている。
昭和58年(1983)、員弁警察署が宇野へ移転するに先だって、員弁町教育委員会が発掘調査を行った。発掘調査の場所は、宇野城址そのものではなく武家屋敷跡ではなかったかとの見方が強い。
宇野城址発掘調査概要:八三〇八一四 員弁町教育委員会
後藤右馬允実重が居城したが、永禄11年(1586)織田信長侵攻の時に滅ぼされた。(勢陽五鈴遺響)
(三重の中世城舘)
6-4. 遺構
柱穴らしきものもが発掘区中央部に検出され、はっきりしたかたちにはならなかったが、建物があったことが推測される。
井戸:直径約1.4メートル 長さ約8.8メートル(現状)
※その他、土壙、ピットが検出されたがそのほとんどが遺物を伴っていない。
発掘区A-3には焼土がみられた。
遺物:土器類
皿片・・・(発掘区中央部のピットより出土)
すり鉢片(近世?)
寛永通宝 二枚
6-5. 下笠田城
下笠田字旭1550 地目:宅地 立地:台地 時代:天正
城主:多湖大蔵橘実元
概要:建武年間、多湖刑部左衛門がこの付近を押領し、代代居住して付近に大きな勢力をもっていた。永禄年中の城主多湖大蔵介橘実元は織田信長に服した。のち天正18年(1950)に小田原の戦に参加して討死している。(員弁雑誌)多湖家は江戸時代に村庄屋となり、城跡を宅地として現在も続いている。(三重の中世城館)多湖氏の勢力は北勢四八家の中でも強い方で、員弁郡古史考集録には高柳、大井田、笠田、美鹿、楚原、御園を領し、御園に渡辺氏を置いた。とある。しかし、永正7年(1510)北畠氏が北勢地方に勢力を伸ばしたときは北畠氏に従い、永禄11年(1568)織田信長の北勢攻略にあたっては織田に降服するなど、地方豪族の苦しみをなめている。天正17年(1589)11月、豊臣秀吉は小田原の北条氏に宣戦を布告し、諸大名に出陣を命令した。多湖大蔵介橘実元も小田原に出陣し、翌18年(1590)4月、秀吉軍は小田原城の出城を落として包囲網を完了したのであるが、この戦で多湖大蔵介は戦死した。41歳であった。墓は員弁町下笠田の北墓地にある。北墓地は現在笠田新田の多湖姓の家々の墓地になっている。
下笠田の多湖実夫(故人、元山梨県知事)の邸宅は、広大な屋敷で下笠田城の跡地であり、多湖家は大蔵介橘実元の末裔ともいわれているが、現在御園に居住の多湖正信家には、多湖大蔵介ゆかりの家系図その他が保存されて居り、大蔵介の子孫ではないかともいわれる。同家所蔵品のなかに、羽柴筑前守秀吉から多湖刑部助に与えた感状がある。此土墨俣陣馬の砌、随身軍功比類、信長公の仰せにより居気相改無隠且恩賞として旧里に於て高千三百石扶持として下し置かれ、領地せしむべきものなり
右永禄六年●猶 羽柴筑前守秀吉
天正五亡 二月 多湖刑部助 殿
信長は美濃平定のため、弘治2年(1556)からたびたび出兵したがほとんど戦果は挙がらなかった。この美濃攻めに大きな転機をもたらしたのは、永禄9年(1566)の墨俣築城である。木曽、長良の合流点に近く、濃尾の国境にある墨俣に、当時木下藤吉郎秀吉と名のって、信長の武将では末席にあった秀吉が、海部郡蜂須賀村の土豪蜂須賀小六はじめ多くその地方の牢人を集めて築城したのである。
その後永禄10年(1567)8月、稲葉山城に斉藤竜興を攻めてこれをほろぼした。感状に記されている永禄6年は墨俣築城の三年前であるから、このあたりで幾度か合戦があったものと思われる。ただ、14年も経てから感状をもらったという事が不可解であるが、墨俣築城当時の秀吉は、まだ部下に感状を与えるほどの地位でなかった為とも考えられる。それに知行が石高で示されているが、まだそのころは銭高で何貫というのが通例であった。感状の花押の真贋のほどは分からない。
6-6. 御園城
御園字道南 地目:宅地 立地:台地 時代:永禄 城主:渡辺八右衛門督
概要:永禄12年(1569)に滅ぶといわれるが(員弁郡郷土資料)、くわしいことは不詳である。南に員弁川を臨んだ台地にあった。御園住宅団地建設のため破壊されている。(「三重の中世城館」より)
6-7. 金井城
北金井字亀谷1206~1226 地目:山林 立地:台地 規模:60×120メートル
「員弁郡郷土資料」には永正ニ乙丑年種村大蔵太夫高盛ノ築ク所ニシテ、天正四丙子年廃絶ニ帰ス、周囲ニ土塁、西及北ニ湟アリテ南ハ高サ五丈許田圃ヲ距テ約二丁ニシテ員弁川ヲ控フ(略)高盛元ノ名ヲ実高ト云フ。近江源氏佐々木家六角氏頼ノ末孫ニシテ、江州神崎郡種村郷ニ住ス、コレヨリ種村氏トスとあり、近江源氏の流れをくむ佐々木家の一統六角高盛の子孫である種村大蔵太夫高盛が、永正2年(1505)に築いたとされる。城跡は南北およそ120m、東西約60mほどで、西側に幅約20m、深さ8m程の空堀をめぐらし、北と東側は深く落ちこんだ自然の渓谷に囲まれている。また南面は急坂の上に土塁を築き、下には田園が広がって約200mを隔てて員弁川が流れている。川は洪水のたびに流れを変えるので、当時は城の下を流れていたのかも知れない。当時としては攻めるに難く守るに易い地の利を得た要害であったと思われる。昭和56年に、西方地区の川原で砂利採取作業をしていた際、土中から種村一族を弔ったものと推定される宝篋印塔の一部五基と、五輪塔二基が出土した。宝篋印塔は青川か山田川のものと思われる青石、五輪塔は花崗岩でできており、西方の円願寺に安置してある。
6-8. 宝篋印塔
発見されたのは宝篋印塔の一部、約30cm四方の台座五箇である。宝篋印塔は、方形の台座の上に塔身を置き、四隅に飾り突起のある笠石を重ね、頂上に数個でできている相輪をのせた塔で、身分の高い人の墓石といわれている。出土した宝篋印塔の台座は青石で作られており、各狭間と呼ばれる雲形の彫物やハスの花びらを形どった反花が施されている。発見された場所から約200m西北の丘陵地には、金井城があったところから、この宝篋印塔は種村一族とかかわりのある墓塔とみられる。宝篋印塔は、五輪塔とならんで造塔数の多い石塔で、特に山陽・四国・瀬戸内海岸・奈良・京都・琵琶湖岸・鎌倉に多い。塔形は、下部から反花座・基礎・塔身・笠・相輪の部分からなっている。積み重ね塔のため、この五材による構成が多いが、稀には一材による塔もある。塔高は基礎の幅の三倍に一致するという設もあるが、156cm(五尺五寸)から210cm(七尺)前後のものが多い。応永年間(室町前期)ごろから、石塔の小形化・簡略化の傾向がみられるが、他の石塔のように多数化しなかったようである。
永禄11年(1568)織田信長の北勢攻略に際し、高盛は一度は抗戦したもののすぐに降服して信長の配下となった。元亀3年(1572)高盛は88歳で歿し、四男の種村弾正左衛門秀政が跡を継いで金井城主となった。秀政は信長の軍に従い長島の一向一揆平定に出陣したが、天正2年(1574)6月長島で戦死した。秀政の長男、種村千代次秀信が金井城主となり、領地は旧のままであった。天正4年(1576)秀信は、北勢五都を所管する信長の武将滝川一益によって、長島城におびき寄せられて自刃し、種村氏は滅亡したのであるが、この年代については天正5年(1577)とする書物もある。
6-9. 後太平記
種村大内蔵足利義昭将軍ニ御供シ、尾州信長ヲ頼ミ、三好長慶ヲ討ツト、高盛ノ三男ヲ和田和泉守秀政ト云ヒ、近江国甲賀城主タリ。四男ヲ種村弾正左衛門秀政ト云ヒ、伊勢国員弁郡金井城タリ。五男ヲ種村平七郎信盛ト云ヒ、金井村ニ住ス。是金井種村家ノ祖ナリ。秀政ノ長男を種村千代次秀信ト云フ、天正四年桑名郡長島ニ自殺スルトイフ。員弁雑誌には、北伊勢軍記曰として、金井城主種村弾正左衛門と云ふ。嫡子は種村千代次と云へリ。天正五年の頃、城主種村千代次、大木城主大木安芸守と共に一度信長に降参せしかども心変りの由沙汰ある故に、一益聞きて長嶋へ呼び寄せ殺害すべしとて謀り、使には申遣はしけるは、今度我が幕下に順ふの段神妙の至りなり。之に依って信長公よりの上意の旨有之、可申渡の間、急に可被参着と誠しやかに計りける。其時安芸守も千代次も両家共に無心計に候へ共不仕は彼即時に押寄せんは必定なり。一先彼の心に随ひて兎も角もと言て会せて員弁郡を罷り立ちて長嶋へこそ行きにける。種村千代次一足先に行きければ、奥の間にこそ招じける。斯るところに安芸守が少しく所縁の者大手先に待居けるが、安芸守を見るより右の次第を囁きけり。さて種村千代次は如何に問ひければ、早城中に入りにけると申しける。安芸守は取て返し早馬にて走り帰りける。種村千代次は案の定取りこめられ居る所に屈強の兵共大勢取廻し、上意と云ふは余の儀にあらず不届の由洩れ聞へ斬り捨てよとの趣なり。去りながら尋常に切腹せよ。さもなくば只今討つぞと罵りける。種村無念ながら兎角人手に掛らんよりはと、太刀を抜き腹かき切って死にけり。此の由を聞き家人等城を焼き捨て皆散々になる・・・・・(略)と、ここでは種村氏滅亡は天正5年(1577)になっている。
6-10. 大泉城
東一色字屋敷 地目:畑 立地:台地
城主は三浦右衛門大夫氏実とある(桑名志)が詳しいことは不詳である。(「三重の中世城館)より)今でも空堀のあとがみとめられ、昔権現堂があったと伝えられている。
6-11. 大泉西方城
西方の西宮稲荷神社のある所を城山といっており、ここに城があったと伝えられている。
員弁雑誌には、稲荷大明神、社頭南向、是古城跡也、古城主種村左衛門、城内鎮守の神なりと云ふ、・・・(略)・・・今の里俗の伝へにも此の社地を城山と称し、古城跡なりと云ふ。とかかれている。金井城とは目と鼻の間にあり、金井城の出城の役目をしていたものと思われる。
7. 笠田大溜
大溜の築造
寛永年間に笠田大溜として築造される以前から、野間池(野摩池)と呼ばれる池が古くからあったことが「勢陽五鈴遺響」に記載されている。勢陽五鈴遺響の、員弁郡上笠田の項に、
「・・・野間池伊勢国風土記云員弁郡野間池出鱠・鯉・鮒・鰻又貢梓筒菱実等今笠田大池ト称シテ方一里南北ニ濶ク東西ニ稍々狭シ用水二万斛ヲ貯設シテ近邑水田ノ資トス野摩郷ニ古昔ヨリ存スル処ニシテ或ハ野間ニ作ルトイヘトモ咅通ス・・・」 とあり、附近の水田に灌漑用水として利用され、また淡水魚が獲れていたことなどが記載してある。
注 勢陽五鈴遺響・・・伊勢・山田の安岡親毅(1758~1828)及妻八千子によって、天明年間より天保四年(1833)にかけて編さんされた郷土史、全80巻。
笠田大溜の本格的な築造は、桑名藩第五代藩主・松平定綱のときとされているが、桑名市史(昭和34年3月31日発行、49年12月20日再版)には初代の桑名藩主本多忠勝(慶長5年から慶長15年迄在任)が改築したとして次のように記載されている。本多忠勝「・・・属領員弁郡の水利事業や産業開発にも大いに力を尽くし、笠田池の修築、六把野堰水の開設、その他多くの年月、多額の藩費を費して工事を完うし、中興の名君として仰がれている・・・」六把野井水は慶長6年(1601)に着工して、寛永12年(1635)に完工しているので(員弁郡古史考集録)本多忠勝の在任中に工事に取りかかったものと思われるが、笠田大溜についてはどの資料にも、松平定綱の命によって築造したとなっているから、本多忠勝は慶長年間の在任中に、野摩池に若干の修理を行って、新田を開発しようとしたのかも知れない。桑名藩主代三代藩主松平定勝(隠岐守)の三男定綱(越中守)が、兄定行(桑名から松山へ移封)の後を受けて大垣藩主から桑名藩主になったのは寛永12年(1635)で、この年に大泉新田正木嘉兵衛義次、上笠田庄屋二井勝兵衛の次男二井理兵衛正久が野摩池の改築を藩主定綱に願い出て許可を得た。翌寛永13年(1636)1月から二井理兵衛を奉行として溜池堤防の築造工事が始まり、工事は一応できあがったが、明智川の水をせき止めて造った溜池であるために、八月になって大雨による明智川の洪水によって堤防は決壊してしまった。
再び溜池築造にとりかかり工事は寛永15年(1638)3月完成した。工事完成のときには藩主定綱も来遊したが、八月に入って大雨のため又もや溜池は破損決壊した。9月13日正木嘉兵衛は伊勢神宮に参拝し、溜池工事の安全を祈願して一の大麻を受けて帰り字百町にこれを祀って、9月16日神明社の創立となった。
溜池の決壊と修復(水との闘い)
寛永16年(1639)8月にも溜池堤防が70間(約127m)余りにわたって大破した。その年の1月笠田新田某氏の庭に顕れた弁財天像を大溜の中にある島「天の岩」に祀ってあったが、この8月の大雨で水量が増し弁財天像の祠が危険になったので大泉新田から水番に来ていた青年が西側の岸から飛び込み、弁財天像を背中に背負って東の岸に無事泳ぎついて事なきを得たのであった。これによって弁財天像は大泉新田庄屋正木嘉兵衛宅に納められたのである。(「笠田新田史」より)
注 「天の岩」は通称「弁天島」といわれて、樋管の北東にあり、溜の水位が低くなると水面上に姿を現し、小さな石碑が立ててあったが、昭和30年代の溜池改修工事の際この小高いところは削り取られてしまった。
その後享保7年(1722)、享保19年(1734)、天明3年(1783)、享和元年(1801)、同2年(1802)と、寛永13年から享和2年までの160年余りの間に8回にも及ぶ堤防決壊の災害に見舞われた。特に天明3年と享和2年には、大溜用水の奔流によって員弁川下流の村々にも大きな被害をもたらし、ついに享和2年大溜奉行の二井覚左衛門は、責任を問われて罰を受け、家財没収、役職召し上げの上、桑名に蟄居を名命ぜられた。しかし後には中堤防を築造することによって、大溜堤防の決壊を防ぐ策を上申してこれが採用され、再び笠田新田に帰ってまた大溜奉行の任についた(「笠田大溜関係歴史散歩」より)。
災害のある都度、百姓たちの労働によって修復されたことはいうまでもない。また年々、明智川から流れ込む泥や砂によって溜が埋まり、築造後120年ほど経た宝暦年間になると、貯水量が著しく減少した。用水不足によって干魃にかかりやすく、大溜用水で作付けしている水田では、二割も米の収量が減り、他所へ引っ越す百姓も出はじめる状態になったので、宝暦6年(1756)には大溜の拡張工事にとりかかった。底にたまっている泥や砂をかき出し、全堤防を一間かさ上げして貯水量を増やすとともに中堤防を築いて洪水に備えたのである。
岡一号墳
古墳時代というのは、前方後円墳をはじめ前方後円墳・円墳などの古墳が各地に築かれた時代である。そのはじまりは三世紀末か四世紀のはじめごろで、おわりは七世紀ごろにあたる。この400年の間に、人びとの暮らしぶりも古墳も、いろいろな変化をしているので、はじめごろとおわりごろとでは、様子がずいぶん違っている。ゆるやかに流れる員弁川を目前に見、遠くは鈴鹿の山々が青くならび、伊勢湾の紺碧の海を眺めることのできる岡古墳群。そのなかでも一号墳は、標高100mの丘陵をうまく利用してつくられている。この山は茶臼山とよばれ、前方部を南西方向に向け、町当局の協力で、毎年下草かりをして、地域の人びとによって守られている。この岡古墳には、いろいろな話が伝えられ、夢とロマンに満ちあふれている。その中でも、地元の佐藤正一が、次のように語ってくれた。
茶臼山で古墳が見つかったころのことを、私の父の叔父にあたる清次郎から、聞き伝えられていることを、お話ししましょう。岡地区は、水の便が悪く、火事を出さないために、清次郎は、静岡県の秋葉神社(火の神)よりお札をうけ、茶臼山の山頂に、秋葉神社をおまつりしていました。神社の手洗い水は、茶臼山うらの岡だめから、すばちで運び上げていました。大正のおわりごろ、清次郎は秋葉神社の北がわで、手洗い用の井戸を掘っているとき、大きな石にゆきあたり、鉄の棒でつっついていたところ、大きな洞穴に落ちこんでしまいました。そこに、カメにふせられたラムネ玉ぐらいで、八角形をした水晶の勾玉がありました。清次郎は、この勾玉を、天皇系の尊いお方のものと信じ、毎日、ていねいにおがんでみえました。その後、村の駐在さんがきて、「地の下三尺は、お上のもの、個人で持っていると罰せられる。調べるためにあずかっておく。」といわれ、持ちさられました。清次郎は、いくども調べの結果を、駐在さんに問いあわせたが、勾玉はその後ゆくえがわからなくなってしまいました。清次郎は、昭和6年に、この世を去りました。その後の調査によって、清次郎の落ちた洞穴は、前方後円墳の石室であることがわかりました。現在、茶臼山の頂上に建っている古い石は、石室の上にのせてあったものを、清次郎が記念として残したものであり、穴の一部は、今も残っています。また、岡古墳一帯から出た巨石が、岡の神明社の境内に二個建っており、そのほか、掘り出された大きな石が、古墳の周辺にちらばったままになっています。
古墳時代前期・中期・後期・終末期の特徴
古墳時代を四つの区分に分け、それぞれの特徴について考えながら、町内の古墳群および出土品を探ってみることにする。
前期(四世紀)
この期の古墳は、自然の地形を利用してつくられ、平野にのぞむ山上とか丘陵にある場合が多い。この時期の副葬品の基本的な組み合わせは、鏡、玉類、石製品、武器、武具、鉄製生産用具などで、石製品などの祭器的色彩の強いものが顕著に認められるのが特徴である。
中期(五世紀)
この時期の副葬品は、鏡、玉類、石製品、刀剣など前期から引き続いているが、新型式の甲胄や馬具なども出現する。鏡は大量に副葬されることが稀になる。この時期のもっとも大きな特徴は、畿内の大型古墳に大量の鉄製が副葬されることである。また、副葬品ではないが埴輪の生産も一大仕事であった。豪族の首長は、前期にみられた司祭者的・宗教的でなく、政治的色彩の濃い支配者としての性格をおびてきた。
後期(六世紀・七世紀)
この時期は、中期に一部大陸からもたらされた武器・馬具などさまざまな品物の国産化が進み、これらの副葬品が大型古墳とならんで中小規模の古墳にも副葬されるようになる。また、大量の須恵器が石室内に副葬されるのもこの時期の特徴である。玉類は多種多様なものが認められる。中期までの勾玉、管玉、小玉に加え、この時期には水晶製切子玉、多彩な色のガラス製小玉などが副葬される。また勾玉もC字形からコの字形のものに変化する。
このほか、装飾品としては、金環・銀環などの環状の耳飾りや金銅製の冠、魚形の腰飾り、沓なども認められる。武器類では直刀などのほか、銀装・金銅装の飾大刀である環頭大刀や円頭大刀が盛行する。
この期から古墳が群集する傾向にあり、単に首長の墓としてとらえることがむずかしいようである。首長の下の位、小集団の長も、古墳に葬られるようになったと考えられる。
この群集墳は、やや身分のある家族、一族の墓をつくるようになったようである。したがって、六世紀の後半から古墳づくりがさかんに行われるようになった。
この期の古墳は、横穴式石室で合葬、追葬がなされたようである。一体を葬ったあとに、また一体というように、時には10数体ぐらい葬られたこともあった。それは、せん道をあけしめができるからである。
前期にみられるような、一個人の墓でなく、多くの埋葬をおこなったこと、つまり家族的な性格を強くもっていたようである。
終末期(七世紀後半)
この時期の副葬品には仏教文化の影響が認められるものが、ふくまれることが特徴とされる。同時に畿内などでは古墳の造営そのものが減少し、前方後円墳が認められなくなるが、東日本では引き続き小規模な前方後円墳や古墳群が造営されるなど、西日本と東日本の差が明確になる。
副葬品の武器類では、後期に盛行した環頭大刀に代わって、圭頭大刀や桂椎大刀などの金銅装の大刀が主流となる。
馬具では鉄地金銅張の花形鏡板・杏葉や毛彫りがほどこされた金銅製の杏葉・飾金具などが出現する。花形杏葉は仏像の光背と、毛彫り馬具の文様は法隆寺関係の金工品と類似しており、この時期には馬具にも仏教文化の影響が現れる。主に東日本の古墳から出土する銅製水瓶や銅椀なども仏教文化との関連が考えられる遺物である。