いなべの歴史

藤原町(文化財ほか)

  1. 芸能
  2. 神社の祭神
  3. 春澄善縄顕彰
  4. 梅田春涛先生著猪名部神譜二巻による顕彰
  5. 坂本地区の歴史散策
  6. 中世城館

1. 芸能

1-1. 山口太鼓

子供たちが全身で打ち鳴らす山口太鼓は、誠に勇壮そのものである。昭和56年に虫送りの子供会行事として、太鼓を習い始めたのがきっかけとなり、以来10年「祭太鼓」「豊年太鼓」「八幡太鼓」などオリジナルな曲目も増え、指導者藤田権一の献身的な努力もあり、ますますその成果をあげている。
最近、山口太鼓保存会も結成され、地元山口の人々はその発展に力を尽くしている。

1-2. 曳山囃子(坂本地区)

藤原町指定文化財第一号(無形文化財)。坂本地区では鳴谷神社例祭(毎年10月10日)に曳山行事が行われる。滋賀県長浜の山車(やま)を原型にしたと伝わり、桐山弥七という宮大工が明治15年に完成させた。山車の二階では囃子(はやし)方による曳山囃子が奏でられる。囃子は三曲あって、祇園囃子・しやぎり・山車おろしといい、昔は囃子を奏でる区間が定められていた。昭和58年に藤原町の文化財第一号に指定となり、坂本地区ではこの由緒ある囃子を後世に伝えようと、同60年から小中学生を対象に囃子の練習を行い、保存活動につとめている。

1-3. 獅子舞(下野尻地区)

藤原町指定文化財第二号(無形文化財)。下野尻地区では春日神社の例祭に「狂乱牡丹の舞」と称する獅子舞が奉納される。この獅子舞の由来は、一説によると江州から伝わったとされている。また、この獅子舞は近隣に例をみない特異な舞で、歴史の深さが偲ばれる。
下野尻地区ではこの由緒ある神事を後世に伝えようと保存会を結成し、地区をあげて努力しており、昭和58年には藤原町の文化財に指定となった。

2. 神社の祭神

2-1. 天照大神(あまてらすおおみかみ)

鼎の清司原神社・上相場の饗庭神社・日内の御厨神明社・川合の川合神社・立田の清水神明社・本郷の本郷社・東禅寺の御厨神社に祭る。伊勢神宮の祭神で、諸神のなかでは中心的な地位を占めている。大日霊貴尊(おおひるめむち)、また日ノ神ともいわれる。『古事記』は天照大御神、『日本書紀』は天照大神とする。ほかに天照皇大神・天照坐皇大神ともいわれる。『古事記』の神話によれば、伊邪那岐命が妻伊邪那美命を亡くされ、悲しみのあまり黄泉国(よみのくに)に妻を訪ね、あまりにも無残な姿に恐れそこから逃げ帰った。汚れた体を清めた体をみそぎした時、多くの神が生まれた。左の目を洗った時に天照大御神、右の目を洗った時に月読命、鼻を洗った時に須佐之男命が生まれたという。天照大御神は高天原(たかまのはら)、月読命は夜の国、須佐之男命は海原を治めた。皇室の祖とされている。

2-2. 須佐之男命(すさのおのみこと)

鼎の清司原神社・上相場の饗庭神社・下相場の大杉神社・市場の野々宮神社・石川の石神社に祭られている。『日本書紀』には素戔鳴命、『古語拾遺』には素戔鳴尊とも書かれている。『古事記』のなかで、伊邪那岐神のみそぎの際、鼻から生まれた神で、天上で乱暴の限りをつくしたので、天上を追放されて出雲の国に下った。出雲の国では八俣の大蛇(やまたのおろち)を退治したりして英雄的な神とされている。奇稲田姫(くしいなだひめ)と結ばれ、大国主命はこの神の子である。藤原では牛頭天王として、木の神、疫病を鎮める神として信仰を集めている。下相場の大杉神社は往古牛頭天王社と呼ばれている。

2-3. 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)

石川の石神社・川合の川合神社に祭られる。『古事記』では伊邪那岐神・伊邪那岐命と記し、『日本書紀』では伊弉諾尊と書く、女神伊邪那美命と共に国土を生んだという神話の中心神である。国土生成のほか、自然をつかさどる諸神を生み、私たちの日常生活と縁の多い神の生みの親である。

2-4. 応神天皇

上之山田の八幡神社・川合神社・立田の清水神明社・山口の八幡神社・本郷社・石川の石神社・西野尻八幡神社の各社に祭られ、祭神名の次の通りいろいろである。『古事記』では品陀和気命、『日本書紀』は誉田別皇子・誉田天皇とある。応神天皇は仲哀天皇の皇子で神功皇后を母とする。皇后が新羅(しらぎ)を討った年、筑紫で出生。生れた時腕の上に鞆(とも)の印があった。鞆は弓を射る時に左腕につける丸い革製の具、古語では「ほむた」といった。故にこれをその名とした(『北勢町風土記』参照)。神功皇后・比売神を合わせて三神を八幡神と呼び、武の神として全国的に祭られている。京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の祭神として有名。山口の八幡神社はそこから勧請したといわれる。

2-5. 大山祗命(おおやまつみのみこと)

饗庭神社・川合神社・清水神明社・野々宮神社・春日神社・石神社・東禅寺の御厨神社の各社に祭られる山の神である。『古事記』には大山津見神、『日本書紀』には大山祗神と出ている。伊邪那岐命・伊邪那美命の生んだ諸神のなかの一柱だが、山の神は山の位置、部分によって数多く、その山の神の中心になるのがこの大山祗命である。山口の八幡神社には闇山祗命・淤縢山祗命という山神が祭られ、前者は谷を、後者は中腹を守る神という。

2-6. 火産霊神(ほむすびのかみ)

白瀬の各社、東藤原の各社、中里の一部に祭られ、この火神を祭られている地は多い。『古事記』に出ている火之迦具土神と同一で、『日本書紀』では軻遇突智(かぐつち)・火産霊と出ている。神話によると、伊邪那美命が諸神を生んだ最後に、この神を生み、その時焼身し黄泉国(よみのくに)へ行かれた。そこで伊邪那岐命が怒って、この神を斬り殺すと、その体からいろいろな神が生まれた。前述の大山祗命もその一つである。火神・温泉神・鍛冶神とされ、なかでも火伏せの神として八天宮の祭神、秋葉さんともいわれ親しまれている。桑員地方で特に信仰が多いのは、江戸時代文政7年(1824)、桑名藩主の命で各村に八天宮を祭るようにされたからである。火伏せの神であるから、防火に特に気をつけるよう八天宮を祭るようにされたからである。火伏せの神であるから、防火に特に気をつけるよう八天宮に供えた水を屋根などにうつ水打ちの行事の残されているところがある。

2-7. 稲倉魂神(いなくらたまのかみ)

市場の野々宮神社・立田の清水神明社の二社に祭る。『古事記』には宇迦之御魂神、『日本書紀』は倉稲魂神、『旧事紀』には稲倉魂神とある。ウカは食料の意、ミマタは生命力を示し、食物をつかさどる神である。稲荷社の祭神。

2-8. 建御名方命(たけみなかたのみこと)

川合神社の祭神で武の神とされている。神話のなかで、大国主命との出雲の国譲りの交渉の時、大国主命の子、事代主神と建御名方神と意見がちがい、事代主神天神に従ったが、建御名方神は従わず、使者として来た建御雷神(たけみかずちのかみ)と争い、力及ばず信濃の国の諏訪に逃れた。長野県の諏訪神社の祭神である。

2-9. 大山咋神(おおやまくいのかみ)

鳴谷神社の祭神。なお、立田の清水神明社と二社で祭る。『古事記』によれば大年之命の子で、末の大主の神ともいわれ、滋賀県坂本の日枝(ひえ)神社の祭神として有名である。山の神とされる。

2-10. 大己貴命(おおなむちのみこと)

立田の清水神明社・石神社の二社の祭神。大国主命・大物主命の別名で、『古事記』では大穴牟遅神と書き、須佐之男命六世の孫とし、『日本書紀』では大己貴命と書いて素戔鳴尊の子とるす。少彦名命と共に国土の開発・経営につとめた。別名として大名持命・大国魂神・葺原色許男神(あしはらしこおのかみ)・八干矛神(やちほこのかみ)がある。仏教の大黒天と同神とされている。出雲大社の主神である。

2-11. 建御雷神(たけみかづちのかみ)

下野尻の春日神社の祭神。『日本書紀』には武甕槌神とある。神話のなかに大国主神との国譲りの交渉の使者として高天原から下った武神である。出雲平定に功労のあった神で、常陸の国(茨城県)の鹿島神宮に祭られる。

2-12. 少名昆古那命(すくなひこなのみこと)

『日本書紀』では少彦名命と出ている。『古事記』によれば神産巣日神の子、大国主神と共に国土の経営に力を尽くした。医薬の神、酒造、温泉の神ともいわれ祭られている。神の指からもれたほどの小さな神であったので、この名がついたといわれる。

2-13. 天児屋根命(あめのこやねのみこと)

『記紀』共に天児屋命となっているが、『姓氏録』は天児屋根命となっている。藤原では石川の神社と野尻の春日神社の祭神。神話のなかで、天照大神が弟須佐之男命の乱行をいさめるために、天岩屋に隠れた時、その前で祝詞を奏上した神。天孫降臨の功神とされ、祭祀をつかさどる。藤原氏の祖といわれ、春日神社の主祭神である。

2-14. 豊受大神(とようけのおおかみ)

本郷社と石川の石神社に祭られている。トヨは美称、ウケは食料の意といわれ、食物をつかさどる神であり、伊勢神宮外宮の祭神である。

2-15. 経津主命(ふつぬしのみこと)

下野尻の春日神社に祭られる武神である。伊波比主神(いわいぬしのかみ)ともいわれ、大国主命が出雲の国譲りをした際、出雲平定の功によって武神として香取神社に祭られる。

2-16. 磐長姫命(いわながひめのみこと)

下野尻の春日神社の祭神である。『古事記』には石長昆売とある。大山祗神の娘で、木花佐久夜昆売(このはなさくやひめ)の姉神である。末長い寿命を守る神とされている。

2-17. 金山彦命(かなやまひこのみこと)

立田の清水神明社の祭神。『古事記』では金山昆古神、『日本書紀』では金山彦とある。神話のなかで伊邪那美命が火の神を生んで身を焼かれた時、嘔吐し、その物の中から生まれた神という。火を防ぐ神ともいわれ、鉱山守護神、鍛冶神としても信仰をあつめている。近くでは岐阜の垂井、南宮神社の祭神である。

2-18. 衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)

山口の八幡神社・下野尻の春日神社に祭られている。久那斗神(くなどのかみ)も同じ。『古事記』のなかに伊邪那岐命が黄泉国から逃げ帰って、身の汚れをはらうためにみそぎをされた時、投げ棄てた杖(つえ)から生まれたのがこの神であるという。道路に立って悪魔の来るのを防ぎ、追い返す神である。柱の形であるから杖からできたのだといわれる。

2-19. 住吉三神(すみよしさんじん)

底筒之男命(そこつつのおのみこと)
中筒之男命(なかつつのおのみこと)
表筒之男命(うわつつのおのみこと)
前項の神と同じく伊邪那岐命がみそぎをされた時に生まれた神で、海神、農耕の神とされている。住吉神社に祭られているので住吉三神という。この三神を祭るのは日内の御厨神明社と石川の石神社の二社であり、珍しい神と思われる。

2-20. 弥都波能売神(みずはのめのかみ)

下野尻の春日神社だけの祭神である。『日本書紀』では罔象女神と書く。『古事記』によると伊邪那美命が火の神を生んで病んだ時、その尿から出生した神で水の神である。ミツは水、八は走または速を示し、灌漑(かんがい)用の水をつかさどる女神であろうと『北勢町風土記』では解釈されている。

2-21. 八衝比古神(やちまたひこのかみ)
2-22. 八衝比売神(やちまたひめのかみ)

下野尻の春日神社に祭られている。道路の神で、四つ角、横道を守る神とされている。

2-23. 水分之神(みくまりのかみ)

山口の八幡神社の祭神である。『古事記』のなかに伊邪那岐・伊邪那美の二神が諸神を生んだその一柱で、天の水分の神、国の水分の神とある。ミは水、クマリは配りで、ミクマリは山の水が分かれて流れるところをあらわしている。水の配分をつかさどる水神として祭られている。

2-24. 闇山祗命(くらやまつみのみこと)
2-25. 淤縢山祗命(おどやまつみのみこと)

山口の八幡神宮に祭られている山神である。『古事記』によると、伊邪那美命、諸神を生み最後に火之迦具土神を生んだ時、火傷のために黄泉国へ行くことになる。そこで伊邪那岐命が怒って、火之迦具土神を斬り殺される。その体からまた諸神が生まれたが、そのなかの二柱である。闇山津見神は陰(ほと)に生成したといわれ、谷をつかさどる神とされる。淤縢山津見神は胸に生成したので、山の中腹に住む山神とされている。

2-26. 倭比売命(やまとひめのみこと)

市場の野々宮神社の主祭神である。垂仁天皇の皇女で、斎王となり、伊勢神宮を五十鈴川の川上に移された。日本武尊の叔母にあたり、日本武尊が東征に行く時草薙(くさなぎ)の剣を与えられたことで有名。

2-27. 日本武尊(やまとたけるのみこと)

立田の清水神明社に祭る。『古事記』では倭建命と書く。景行天皇の子、天皇の命により九州の熊襲(くまそ)を討ち、更に東国の賊を平らげて、帰途伊勢の能褒野(のぼの)で病死される。古田地内にみことにちなむ伝説の地がある。

2-28. 大年之命(おおどしのみこと)

市場の野々宮神社の祭神である。『古事記』には須佐之男命の子とされ、穀物の神といわれる。

2-29. 神功皇后(じんぐうこうごう)

石川の石神社に祭られる。『古事記』では息長帯比売命、『日本書紀』では気長足姫尊と表記されている。応神天皇の母、仲哀天皇の皇后であった。熊襲を討つために天皇と共に九州におもむいたが、天皇が急死するや武内宿祢とはかり、妊娠中の身で三韓を征し、九州にもどって応神天皇を生んだ。大和に帰り、応神天応を皇太子に立て、久しい間自ら政治をとった。

2-30. 神武天皇(じんむてんのう)

西野尻の八幡神社に祭られている。初代の天皇とされ、『古事記』には神倭伊波礼昆古(かむやまといわれひこ)・若御毛沼命(わかみけぬのみこと)または豊御毛沼の命(とよみけぬのみこと)とあり、『日本書紀』には神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)とある。

2-31 伊香我色男命(いかがしこおのみこと)

長尾の猪名部神社の主祭神である。『古事記は』伊迦賀色許男命、『日本書紀』では伊香色雄と書かれている。また、両書によると、崇神天皇の時、神事奉仕者として仕えたとされている。『姓氏録』には伊香我色男命は郷土員弁の猪名部造(いなべみやつこ)の祖とある。

2-32. 天津日子根命(あまつひこねのみこと)

東禅寺の御厨神社の祭神である。『日本書紀』には天津彦根命とある。『古事記』によると、天照大神がつくられた神で、近畿地方に居住する庶氏の祖といわれている。多度神社の主

3. 春澄善縄顕彰

3-1. 猪名部神社合祀による顕彰

藤原町長尾字屋敷244番地に鎮座の猪名部神社は『延喜式』に記載されている員弁郡十座の一つで、猪名部造(猪名部族の統率者としての姓(はがね))の祖神伊香我色男命を主神とする社である。そして長尾出生の春澄善縄が、その祖神を祭り、氏神とされた由緒の古い社でもある。この神社の近くの、古来春澄屋敷と称してきた所に、郷人が春澄社と称する神祀を建て奉斎してきたが、明治40年12月26日付官許を得、翌41年2月20日、村社猪名部神社に合祀し、崇敬の実をあげている。

3-2. 社址碑の建立による顕彰

このようにして合祀して以来、当区(大字長尾および日内)の区長と氏子総代が、もっぱらその責に任じ、同時にその保存会を組織して、宅址の整頓を図り、美化に努め、善縄卿の偉徳を顕彰しようと記念碑の建立を期したのである。幸いにして、大正9年(1920)9月、三重県保存会から記念碑建設費補助として、金360円を交付され、さらに、昭和2年(1927)9月、保存会補助として、金100円を交付された。こうして、大正10年(1921)2月19日、大字長尾979番地(大字長尾春前区有地)に、「従三位春澄縄卿宅址碑(しょうさんみ(い)はるずみのよしただきょうたくしひ)」が建立されたのである。

3-3. 宅址碑側の由来建碑による顕彰

原漢文を編者藤田が訓読すると次のようである。
従三位春澄朝臣善縄宅址の碑側に題す。此の地、古来、春澄屋敷と称す。館舎の遺址歴々として、現存す。郷人祠を建てて卿を祀る。正くは、卿の本姓は、猪名部造(いなべのみやつこ)・字は達。延暦16年長尾村に生誕す。人と為り、俊慧(しゅんえい)、弱冠出でて、京師(けいし)に移り、淳和・仁明・文徳・清和の四朝に歴任す。累進して、参議・式部大輔・文章博士(もんじょうのはかせ)に補せられ、侍講(じこう)兼大学教授及び諸州国司に任ぜられ、続日本後紀(しょくにほんこうき)の勅撰に参預す。貞観十二年薨ず。寿七十四。長女洽子才藻(あまねいこさいそう)有り。任ぜられて、中宮高子(たかいこ)の典侍(ないしのすけ)と為る。貞観十五年、京より参向し、郷里の猪名部神社に奉幣す。本村夙に卿の遺跡の顕彰を謀る。郷儒梅田春涛翁(きょうっじゅうめだしゅんとうおう)、為に、猪名部神譜二巻を著す。考証精到たり、此を以て、屢々、当局に折衝し、明治40年2月、官許、翌年2月20日、旧春澄社を村社猪名部神社に合祀し、其の跡に卿宅址の碑を建てたり。大正9年9月三重県保存会は、金若干を交付して之を補助せり。当時、余、亦此の事に干与す。郷人余をして、其の事略を叙せしめ、併せて永く卿の遺光を後昆(こうこん)に伝う。
昭和39年8月 元神宮皇学館大学教官 克堂近藤杢撰す。

4. 梅田春涛先生著猪名部神譜二巻による顕彰

藤原町の生んだ鴻儒梅田春涛先生の心血を注いで著された猪名部神譜上下二巻は、長尾鎮座の猪名部神社の最も権威のある由来書であって、同神社の重要な宝物である。先賢遺芳(大正4年11月三重県発行(天覧本)による顕彰(資料提供)近藤杢先生著、員弁史話、員弁郡略史等による顕彰 藤原町史による顕彰。

4-1. 春澄氏関係郷土遺蹟等の続記
春澄氏の氏寺

大字長尾の猪名部神社境内の隣接地にある。現在の長尾山東泉寺(旧名福林寺)は、延暦年中の開基という。
もとは浄土宗に属し、猪名部神社の別当寺(猪名部氏の氏寺―猪名部寺(員弁寺))であったとも。一説には、白瀬城主近藤弾正左衛門吉綱の菩提寺ともいわれている。聖徳太子の古像を安置する。猪名部寺跡であることは、付近に宝鐸畑(ほうたくばた)が称する地があることでも知られる。つまり、猪名部寺荒廃後、宝鐸を掘り出したことによる名という。その他、寺跡近傍の山中には、無数の五輪石の散在が見られ、往古相当の伽藍がこの地にあったことは疑いないところである。

4-2. 春前(はるさき)の地と両馬場

現在の春澄卿宅址碑の場所は、古来、春澄屋敷と称され、今猶(いまなお)判然たる館舎の跡がうかがわれる。その南方耕地を春前といっている(地籍は、旧中里村大字長尾字春前と明記あり)。おそらく、卿に因(ちな)むのであろう。また、その付近に、上屋敷、両馬場等の地名があり、往時錬武の跡と察するに十分である。善縄の子孫員弁行綱の基(基は建物の土台)は、今経塚(きょうづか)といっている。猪名部神社北方約80メートルの高地にある。

5. 坂本地区の歴史散策

5-1. 行政沿革史

江戸時代は桑名藩領坂本村、明治以降、幾多の変遷がありますが、明治12年員弁郡の傘下に入り、明治22年に西藤原村坂本となりました。昭和30年に藤原村の傘下に入り、昭和42年に藤原町に昇格。
平成15年12月にいなべ市が発足、現在に至っています。

5-2. 往古の歴史背景

地元では、行政単位が明治の頃から、坂本と大貝戸を西藤原地区と呼んで、現在もあらゆる事は、両地区で物事を考える事が多くあります。学区や老人会なども、市の中で一単位になっている場合が多くあります。自治会に関しては、坂本・大貝戸の2地区となっています。往古・人が住み始めたのは縄文時代であるらしい。坂本の岡山・上中山に縄文遺跡が記録されています。その後、平安時代となり、比叡山延暦寺を開かれた、伝教大師が東国への布教の旅の途中に、この藤原岳の麓を通られ、夢のおつげで、ここが霊地と悟られて、観音堂を建立されたのが、この地区の歴史の始まりといわれています。伝教大師は、延暦寺同様、比叡山から日吉大社の分神を勧請され、土地名も坂本と名付けられたという伝承もあるくらいですが、日吉大社のお仕えの動物がおサルさんであったところから、伝教大師が、怪我したおサルさんを助けられたところ、大師が観音堂建立の際、おサルさんが大師のお手伝いをしたという、“サルの恩がえし”という民話が残っています。(鳴谷神社境内のおサルさんの狛犬は珍しいそうです)そして、観音堂は、鳴谷の観音さんと呼ばれ、大いに栄え、七町四方支院を多く持つ寺院になり、鎌倉時代には、児玉彦太郎という人が寺奉行として派遣されて来ました。また、有名な北勢地方の地頭・藤原実重の作善日誌にも、「延応2年(1240)鳴谷の鐘の奉加に米六斗参らす」と記録にもある程、有名な古刹であったようです。そして、戦国時代になり、織田信長の北勢攻略で、滝川一益の軍に攻撃され観音堂は焼かれてしまいます。江戸時代になり、焼け跡に、臨済宗妙心寺派の後に聖宝寺が再興され、それより先、支院跡に浄土真宗本願寺派の誓願寺、坂本には浄土真宗大谷派の敬善寺が再興となります。話は遡りますが、観音堂の里坊として坂本ができ、勝負が原という地区もありましたが廃村、誓願寺再興の折、元武士集団が来て大垣内を形成、今の大貝戸になったという伝承があります。

5-3. 鳴谷神社

祭神は大山咋神(おおやまいくのかみ)、古くは日吉神社と呼んでいましたが、明治以降、鳴谷神社と呼ばれています。坂本・大貝戸両地区の氏神社で、秋の祭礼には、両地区から山車が出ます。江戸時代は、両地区とも太鼓山車でしたが、明治初年に、坂本が滋賀県の宮大工を招き、長浜と同型の山車を作成しました。ちなみに、山車はいなべ市の有形文化財に指定を受けている他、山車の二階で演じられる囃子も、無形文化財の指定を受けています。境内には、複数の巨木があり、社叢として、いなべ市の天然記念物の指定を受けています。また、拝殿左横には、八天宮の社があって、これは、江戸時代に桑名藩の命で、防火の為に、毎月三日、当番が清めた水で、各戸に水打ちして行く行事が坂本地区に残っています。

5-4. その他の歴史

歴史的街道・道については巡見道が通っています。東海自然歩道もほぼ同じ処を通っています。聖宝寺境内には、台湾事変・西南戦争の戦死者の記念碑もあります。聖宝寺境内の庭池・滝は名所となっており、もみじ祭りも有名です。伊勢巡礼所としても有名で、多くの巡礼者が訪れます。
伊勢西国三十三所観音霊場
二十九番礼所
再統合前は二十七番礼所
資料「勢陽雑記」など

6. 中世城館

6-1. 古田城

大字古田、字、治部屋敷の丘陵の先端に位置し、西に水田と国道365号を見通す。土塁と空堀が残存するが、現在はイノシシ土居として利用されている。そして土塁斜面から常滑焼と考えられる甕(かめ)の破片が採集されている。
『伊勢名勝志』に、城主近藤義晃は永禄4年(1561)に滅ぶとあるのは、治田山城守が白瀬城を攻めた年のことを指すのであろう。近藤氏の属城であった可能性もある。

6-2. 上平野城

大字山口字上平野の山林に位置する。現在は低い土塁と空堀の一部を残す。「員弁郡郷土資料」は、梅山宗兵衛および梅山甚之丞の居城と伝えるが不詳である。

6-3. 山口城(玉垣城)

大字山口字玉垣内の小高い丘陵に位置し、眼下に国道306号を見下ろす。地名から玉垣城ともいう。規模は東西50×南北43メートルと小規模であるが、土塁および空堀の残存状態はよく、土塁の高さは2~3メートルで、南に大手口がある。藤原町内では最もわかりやすい城館である。『伊勢名勝志』では、城主藤田東馬允は永禄年中(1558~1569)に織田信長により滅ぼされたといい、東側の畠は二之丸侍屋敷跡と伝えるが、不詳である。また、この城館は「玉産ば」の伝説をもつ。

6-4. 白瀬城

大字本郷字中森山、員弁川の左岸、中森山の頂に位置し、南は断崖(だんがい)、北は古保谷(こぼだに)の天然の要害を利用している。規模は東西190×南北140メートルで、藤原町内では最大である。その大きさから「勢州軍記・北方諸侍事」に記載されている白瀬家の居城と考えられる。江戸時代に書かれた「北勢軍記・従(ヨリ)ニ治田一攻ムル二白瀬ヲ一事」によると、城主近藤弾正左衛門吉綱は、永禄4年(1561)、治田城主治田山城守に攻められ、滅ぼされたとある。
白瀬城は昭和57年に、中部電力株式会社の送電線鉄塔建設のために、部分的な発掘調査を実施している。この調査では建物遺構は検出されなかったが、戦国時代に使用されていた陶磁器や石硯(すずり)が出土している。そして、最近、古保谷の北に多数の土塁や削平地、井戸跡等の遺構が存在することが確認されている。これらの遺構は、武家集団の屋敷跡と考えられる。なお、員弁郡内でこのような多数の郭が現在確認されている城館は、大井田城・丹生川上城・田辺城のみである。城主近藤弾正左衛門吉綱について「北勢軍記」以外は手掛かりがない。ただ、連歌師宗牧の「東国紀行」にある飛那井弾正と同人物と考えられなくもない。

6-5. 野尻城

大字西野尻字南谷の丘陵の先端に位置する。北から東には平地が一望される。一部は三岐鉄道の線路により消滅しているが、土塁と空堀が残存している。規模は100×130メートルである。
城主については諸説があり、「勢陽五鈴遺響」は西野左馬亮をあげ、『三国地誌』は塩谷兵部と西野左馬助をあげている。また、『伊勢名勝志』は文治年中(1185~1189)輪田右馬允が居住し、そののち、白瀬家が六代続き、その後日置大膳、その子日向および塩谷兵部ら数代が居城したと記している。

6-6. 石川城

大字石川の現太平洋セメント(旧小野田セメント)の工場内に面積およそ600坪を有し、かつては、土塁、空堀が存在していた。『伊勢名勝志』はこの地は東禅寺の寺領であったので、坊官斉藤助六が歴代居住したが、応永年中(1394~1427)に寺領が没収されたので、廃城になったと記す。

6-7. 東禅寺城

東禅寺字神垣内の丘陵に位置し、南は多志田川が流れ絶壁の要害をなす。そして、北隣には東禅寺廃寺が存在する。規模は60×40メートルと小さく、周囲を土塁で囲んでいる。城主に、『三国地誌』は片山平蔵を、『伊勢名勝志』は片山平蔵と東禅寺付地頭斉藤助六をあげ、斉藤助六は後日、石川城に移ったと記す。なお、片山平蔵は阿下喜城の城主として考えられるので、東禅寺城は片山氏一族の属城の可能性もある。

6-8. 万太城

白瀬小学校の東南の丘陵の一角に位置し、土塁が残存するが、詳細は不明である。

2024年 11月
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